誰がために生きる

いい供養いつまでも! (有)やまにしブログです。

なんとなくyoutubeを見ていたら、
何やら三島由紀夫氏のピックアップ動画に行き当たりました。
(どういうアルゴリズム????笑)

その動画、見てはいないのですが、
気になったのはそのタイトル。

「人間は自分の為に生きて自分の為に死ぬほど強くないのであります」

これがぶっ刺さったわけであります。

うん、これですよ。私が言いたかった表現はこれ。

これこそが、お墓の意義であり、葬送としての宗教の役割であると。
いまのところ自分の中ではそう結論付けられます。

しかしながら、この”強さ”とは決して、 強い=良い、優れている  
というわけではないんです。

”強さ”の対義語は”弱さ”ではあるのですが、 ここでいう”弱さ”とは、
”劣っている、悪い”ということではない。
それは、自分の選ぶ生き方のベクトルの違いだけであり、優劣ではないんです。
 
極端に言うならば、ここでいう”強さ”を持ち合わせるならば、
はっきり言って宗教もお墓も必要ありません。そしてそれが悪でもありません。

しかし、三島氏がいうように、どうやら人はそんなに強くはない生き物。。。。
そういった業があるのだと思います。

そして、そうなればこそ、故人を慈しみ、悼み、頼り、励みにできるのです。
それは素直に愛おしい、人間らしい感覚ではありませんか。

お墓の有り方は自由ですから、”強い”ことも否定しません。
しかし逆に、”弱い”生き物である私たちの感覚もまた、
愛おしくてかけがえのないものであることを、許してあげてもいいのではないでしょうか。

現代はともすれば、お墓不要論、宗教不要論などと言われ、
そういった感覚をもつことを否定されやすい世情が強いようには感じます。
それを、人間の感覚が”強くなった”というならばある意味でそうなのかもしれません。

しかしながら、ご自身の心の声に素直になり、お墓についてはしっかりと、
自分のしたいこと、してあげたいこと、自分の家にふさわしいかたちをしてください。

純粋なその気持ちは、作法や金額など関係なく、いちばん尊い存在だと私は思います。