永代供養を掘り下げる

いい供養いつまでも。有限会社やまにしです^_^

 

先日のときめく終活セミナーの補足第2段!ですよ(╹◡╹)

 

今日は、”永代供養”について掘り下げてみます。

永遠を測れる?

当日のセミナー内でもお話しましたが、

“永遠”とはある意味やっかいなもので、

物質的にも、意識的にもそれを達成できるのかどうか、確かめる術がありません。

永遠を超えるものでしか永遠は測れないから。

 

そこで永代供養ですが、果たしてそれが永遠であると保証することが困難なのは明らかです。

 

しかしそれではあまりに夢がないので、

ただひとつ、永遠なるものをお伝えします。

ただひとつ永遠なるもの

それは、

「あなたが今、先祖に対して”永遠”を望むほどに愛と畏敬の想いを捧げている」という事実。

この事実は、物質が滅び形を変えようが、精神が消えてなくなろうが、決して変わらない。

それこそ”永遠”に。

姿形も、作法も変わり、それを引き継ぐ誰かもいなくなり、人類の記憶から消えてしまったとしても。

その事実は変わらない。

 

永遠とは、わたしたち人間の認識能力の外の力です。それを望むことは現実的には無理なのですが、それを望むほど、あなたを愛していると。

それってとても、すてきなことじゃないですか( ◠‿◠ )

 

余談ですがおそらく今の人類史において、悠久に近い時間を超える物質とは、自然石(特に花崗岩)をおいて他にないと思われます。だからこそ太古の昔から墓碑は石でつくられてきた。悠久や永遠を望み、託すための素材として。 だから石は素晴らしいんです。

お墓は素晴らしいし、

墓石はこんなに素晴らしいんです!!!

 

しかし、だからといって決して永遠ではない。

物質は長いときを経て、破壊と再生を繰り返して循環しておりますので。 

でも、それでいいじゃないですか!

 

供養の多様性

供養の作法についてはとてもデリケートな部分です。死生観の目線でもあるし、いまや宗教観の根幹にあるとすらいえるものですよね。 

 

宗派が違えば、お国が違えば、人が違えば、

供養の作法はぜんぜん違っています。

そのどれが正解でどれが不正解かなんて、だれにもわからないし、互いに尊重して慈しみ合えれば、すてきだなとおもうのですが。

しかし現実には宗教観による戦争すら起こってしまうほどに、、、

 

さてここで、果たして”供養”とは何をもって”供養”というのか?

仮に最終的にはヒトの管理を離れ、

物質的にも精神的にも生命の循環に組み込まれていって姿かたちを変えていく、そのことを”供養”と呼ぶならば、

どんな作法のプロセスを踏もうとも、だれもが最終的にはその段階に入るので、結果”永代供養'”と呼ぶこともできますね。

逆に、特定の宗派で、特定の場所、特定の方法で、永久に法要をしてくれる、と期待することは、果たしてその組織が維持される間は可能ですけれども、、、、、。

 

そこまでいくと強引な理屈にも見えますが、要は考え方、捉え方(°▽°)

このことについては、このブログでも何回か登場しているこちらの書籍

こちらを読むことでひとつの着地点を見いだせます。 

要点をまとめると、いずれ身体も魂も森羅万象へ還っていく。つまりは神=自然 へとつながる、といったところでしょうか。

ご興味のある方は貸し出し可能なのでお問い合わせくださいね^_^

 

それでは本日はこのへんで。

次回も多様性について考察してみる予定です!